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プロフィール

如月東子

Author:如月東子
C’est l’enfance de l’art.へようこそ。
(セ・ランファンス・ドゥ・ラール)

昔から絵を見るのが好きで、美術系の大学に行き「美術史」などを少し勉強しました。

その後、美術とは関係ないお仕事についたけど、美術について、普通の人よりはちょっぴりだけ多く考えてきました(多分)。

そんな私が、これまで美術鑑賞をするなかで気づいたこと・感じたこと・考えてきたことの中には、美術をもっと楽しみたいと思ってる人に、なにかヒントになることがあるかもしれません。

美術鑑賞の記録を中心に、美術館などの紹介や鑑賞の役に立つ情報などを載せていければ、と思います。

皆さんのお役に立てれば幸いです☆

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映画「ヴィヴィアン・マイヤーを探して」鑑賞

原題 FINDING VIVIAN MAIER

2013年 アメリカ  83分
監督 ジョン・マルーフ、チャーリー・シスケル


オススメ度 ★★★★★(あの写真を大写しで見られるだけでも価値あり)
エンタメ度 ★★★☆☆(ある意味スリリング)
芸 術 度 ★★★★☆(ハッとする写真たちを堪能)
完 成 度 ★★★☆☆


***




これは、1926年に生まれ、2009年に亡くなった
ある無名の写真家に迫るドキュメンタリー映画。

ヴィヴィアン・マイヤーという希代の才能をもつ女性が、
住み込みナニーをしながら、
10万枚以上の写真を撮りつづけていたのだ。
公には一度も発表することなく・・・。

彼女の写真が、ネガフィルム(negatives)から現像され、
世間の注目をあつめたのは、彼女の死後。

2007年に、
今回の映画の監督の一人であるジョン・マルーフが、
自分の家の近所のオークションで、
ヴィヴィアンのネガフィルムを大量に落札したのがことの発端。

マルーフがこの魅力あるネガの作者を
本格的に探しはじめたのは、その2年後。

彼がヴィヴィアンの消息をとらえたそのとき、
すでにヴィヴィアンは世を去っていた。
しかも、ほんの少し前に・・・。


***


この映画は、マルーフが、
ヴィヴィアンの人生と関わりのあった
100人余りの人に会って聞き取りをし、
過去の国勢調査や家系探索の専門家を使って、
ミステリアスウーマン(自称)=ヴィヴィアンを
finding(探して、見つける。発見する。)する物語である。


ヴィヴィアンにはまるで身寄りがなかった。
非常な秘密主義者で友人もいなかった。

この謎の写真家がどんな人間だったのか・・・?
彼女の作品はどうやって生まれたのか・・・?

発見者マルーフの徹底したリサーチぶりは
この映画の見どころでもある。


***


マルーフを駆り立てるものは、
ひとつには彼女の写真の魅力だが、
もうひとつは、
彼女の才能とその貧しい人生とのギャップなのだろう。

だれでも疑問に思うのは、
なぜ彼女は一度も自分の写真を発表することをしなかったのか、
ということだ。

あれだけの才能があり、
多分、自分でもそのことは分かっていたはずだが、
なぜ彼女は写真を発表しなかったのか?

・・・その理由はわからない。

映画の中でマルーフは、その一つの要因として、
彼女に自分で現像する技術がなかったからではないか、
と推測している。
理想的な現像の技術者を求めていたことは分かっているが、
もしかしたら、コンスタントにそれを依頼するだけの
お金がなかったのかもしれない。

だが、映画を見ての私の想像にすぎないが、
きっと彼女には恐れがあったのだろうと思う。
強い強い怖れが。

彼女が同じだけの才能のある男性だったら、
間違いなく世にうって出ただろうと思う。
・・・しかし、彼女は女性だった。

いくつかの証言があるように、
ヴィヴィアンには男性嫌悪(あるいは恐怖)があった。
(過去にトラウマ的出来事があったらしい)

女性が、・・・というより、
「ある人」が社会にうってでて社会の注目を集めようとするとき、
その人は、社会の中枢を占め、
経済活動のマジョリティを形成する男性たちと
何らかの関わりを持たざるを得ない。
まずは彼らのジャッジに耐えなければならない。

性的な偏見もまだまだ強い中で、
それは公正な審判となっただろうか?

そもそも、芸術家にとって
良しにつけ悪しきにつけ「評価」を受けることは、
(創作の根源を規定するものではないにせよ、)
ものぐるおしいものである。

それでも、己の中のある確信をもって
自分の作品を世に問うのが「芸術家(近代的な)」なのだからこそ、
私たちにはヴィヴィアンの行動が不可解に感じられるのだが、
逆にいえば、ヴィヴィアンの恐怖は、
それ以上のよほど強いものだったのだとも考えられる。

それに加えて、聡明な彼女は、
自分の貧しい身分やエキセントリックな性格を十分自覚していただろう。
物見高く表面的な世間一般の判断基準も身にしみて分かっていただろう。

彼女はどうしてもそういう場に足を踏み出すことができなかった。

ときに偽名を使い、「私はスパイなの」と言っていた彼女。
だれにも正体をつかませたくない、というのは、
根本的に自分自身を肯定することができない人間がすることだ。

とうてい「マス」の中に自分をさらすことなどできない。



***


ともかくもヴィヴィアンは、その優れた才能を
社会的な関係と結びつけることが出来なかった。

彼女はそのまま亡くなってしまったけれど、
死後、彼女の心は掬い(救い)とられた(かもしれない)。

この映画の一番救われるところだ。

ヴィヴィアンの写真を解説するのは、
ジョエル・マイロウィッツ(Joel Meyerowitz)という写真家。
ヴィヴィアンと同じ「ストリート・フォトグラファー」の一人。

ヴィヴィアンの写真について、
深く理解し、的確に語るマイロウィッツの言葉。

正確には覚えていないが、彼はこのようなことを言う。

写真には、それを撮った写真家が、
映っている人間をどのようにとらえたか、どのように理解したかが写る。
ヴィヴィアンの写真には、人に対する思いやりが感じられる



ヴィヴィアンは当時の社会としては相当変わった女性だった。

政治的問題に興味を持つ一方、
猟奇的な事件に強い関心を持っていて熱心にスクラップした。

自分の殻に閉じこもり、
人にあわせて生きることができなかった。
場合によっては、ナニーという立場を利用して、
子供に対してひどいことをする人間でもあった。

でも、彼女が片時も離さなかったカメラから生みだされた写真は、
彼女のいびつさではなく、
彼女の人間と社会に対する深い理解を映し出していた。


作品が、芸術家のパーソナリティと
どれだけの関連性をもっているものなのか、
正直、私にはわからない。

「優しい」絵を描く人が優しく、
「崇高な」絵を描く人が崇高な人格を持っているのか、
私は知らない。

だが、社会のほとんど底辺で、
心に苦しみをもって生きたヴィヴィアンの見た・感じたなにかが、
彼女しかもたない特別なアート(技)をもって表現されたとき、
それは人の心をうつ普遍的ななにかであった。

この映画は、「芸術」の
そういう不思議な本質をかいまみせてくれる。


***


この映画にちょっとした難癖をつけるなら、
発見者マルーフの「プロモーション(販促)」的な部分が、
ちょっと鼻につくときがあること。
なまなましい野心が出過ぎているというか。
もちろん彼の功績はすごいし、
ヴィヴィアンを認めようとしない
エスタブリッシュに対する反感はわかるのだけど・・・。


この映画が製作されたのは、2013年ということなので、
その間にヴィヴィアンの研究も大分進んでいるもよう。

20世紀アメリカのアートを考える上で、
非常に面白い(interesting)人物発見の映画。
とても意義ある作品だと思う。


公式HP
http://vivianmaier-movie.com/

マルーフが運営する下記サイトにヴィヴィアンの略歴などあり。
PORTFOLIOSから作品が多数みられます。
http://www.vivianmaier.com/



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思い出すことはつらく、しかし忘れることはもっとつらい



映画「黄金のアデーレ 名画の帰還」鑑賞

原題 Woman In Gold

2015 アメリカ・イギリス 109分
監督 サイモン・カーティス


オススメ度 ★★★★★(美術史に関心あれば必見!)
エンタメ度 ★★★★☆(訴訟や歴史の話だが、わかりやすい)
芸 術 度 ★★★☆☆(追憶シーンがすばらしい)
完 成 度 ★★★☆☆



300px-Gustav_Klimt_046.jpg


”オーストリアのモナリザ”とすら称されたその絵画を
人は長く、「Woman In Gold(黄金の女性)」と呼んできました。

肖像画であるにも関わらず、
リザ・デル・ジョコンダのようにその名で呼ばれることもなく、
その名は忘れられてきました。


歴史のある時点で、彼女から剥奪された名前。

クリムトの前でポーズをとったその人の名は、
アデーレ・ブロッホ=バウアーといいました。


夫であるフェルディナント・ブロッホ=バウアーは、
ユダヤ人の実業家で、クリムトをはじめとする芸術家のパトロン。
アデーレは、ウィーンの芸術家サロンの女主人でもありました。

この裕福なユダヤ人の一族の運命が一転したのは、
1938年、ナチスによるオーストリア併合(アンシュルス)後のこと。

ユダヤ人迫害がはじまると、他のユダヤ人所有の財産と同様、
この絵もナチスによって没収されてしまいます。

この絵は、ナチス高官の手にわたったとされますが、
その際に、ユダヤ人をモデルにしていたということを隠すために、
ただ、「黄金の女性」と呼ばれるようになったのだとか。


戦後、この絵画は、オーストリア国の所有となります。
その根拠は、「アデーレの遺言」に基づくとされていました。
1925年に亡くなった彼女は、遺言に、
自分の死後は、本作品をオーストリア国に寄贈したいと書いていた、
というのです。


この映画は、アデーレの姪、
マリーア・アルトマン(Maria Altmann 1916 – 2011) が、
姉の死をきっかけに、
かつておじの財産だった絵画の所有権を確認しようとしたところから
話がはじまります。

折しも、オーストリアでは、1998年に、
ナチスによってユダヤ人から没収された芸術作品の返還法が
成立していました。

まだ駆け出しの弁護士とともに、
オーストリア政府との交渉にのぞむマリーア。

彼女はそのときすでに80歳を超えていました・・・。


***


以上のように、この映画は、
「アルトマン夫人vsオーストリア政府の訴訟」を筋書きとしており、
その部分だけでも、
本当に守るべき「国の誇り」とはなにかを問う、十分面白い映画です。

しかし、この映画が人を感動させるのは、
この映画の核心が違うところにあるからではないでしょうか?


私は、この映画は、
戦争を生き残った者の記憶をテーマにしているように思えます。

事実、映画の中でも、追想をめぐる場面がもっとも美しく、
そして、もっとも印象的です。


アルトマン夫人は、ナチス占領下のウィーンから亡命し、
アメリカに渡りました。
そしてその後、戦争がおわってから、
80歳をすぎるまで、一度も祖国にもどったことはありませんでした。

しかし、政府との交渉のために、彼女がはじめて祖国にもどり、
かつて歩いた通りを踏みしめ、かつて我が家であった建物を眺めた時、
一瞬にして、
戦争前の幸せな生活が手に取るように鮮やかによみがえってきます。


彼女の記憶は凍結されていたのです。


踏み出す一歩ごとに、見るものに触発されて、次々に展開される記憶。
場所にまつわる記憶の再現がとても印象的です。


まだ、マリーアが小さく、アデーレが生きていたころの、
ウィーンの芸術サロンの様子。
美しくも悲しげな叔母アデーレとの思い出。
戦争の暗雲を感じさせつつも幸福の絶頂だったマリーアの結婚パーティ…。


ブルジョワジーの富と洗練の極地でもあった
ブロッホ=バウアー家の華麗さの表現は、
特に、目を見張るものがあります。



フラストレーションがたまるオーストリア政府との交渉のさなか、
そしてそれに続く訴訟の間も、
マリーアの記憶は、歴史の順を追って進みます。

ナチスの侵攻と激しくなるユダヤ人差別への恐怖。
おそろしい逃亡の顛末・・・。

もともと彼女をとりまいていた
豊かで、知的で、文化的教養に満ちた世界が急激に変化し、
あらゆるものが剥奪されてしまった。


話が進むにつれて、
亡命以降、彼女がしまい込んでいたものが
徐々に徐々にたぐり出されてきます。


思い出すにはあまりにつらい思い出が、
しかし、忘れてしまうにはあまりに愛しいものと固く結びついている。


困難な訴訟の帰趨に関心がいきがちですが、
この映画は、ひとりの戦争生存者が、
心の深層に、より深くにしまい込んでいたものにたどり着き、
死者たちに、自分が生き残ったことの許しを請う、という
過酷な追想の記録でもあるのです。


映画の最後のシーン。
ありえなかった、そうであって欲しかった美しい光景で映画は終わります。

マリーアが死ぬ直前には、
この映画の最後のような幸福な追想が訪れたでしょうか・・・?
そうであってくれたらと思わざるを得ません。



***


アルトマン夫人を、
非情な歴史を生きぬきながらも、オシャレで、ウィットにとむ、
矜持ある女性として演じたヘレン・ミレンもすばらしいですが、
若手弁護士を演じるライアン・レイノルズのボンクラ顔もよかったです。
(でも本来は、もっとイケメン俳優っぽいですね。)


作品のプロブナンス(来歴)をめぐる物語そのものが
映画になったという点でもユニークな作品です。



なお、本映画の題材となったアデーレの肖像は、
現在、ニューヨークのノイエ・ガレリアの所蔵となって、
一般公開されています。

http://www.neuegalerie.org/home






 
お調子者フジタは戦争になにを見たのか?

映画「FOUJITA」の感想です。


小栗 康平監督
2015年
日本・フランス合作
126分



オススメ度  ★★★☆☆
みやすさ   ★☆☆☆☆
アートっぽさ ★★★★★
完成度    ★★★★☆




***


もっと素直な伝記映画を予想していったら、
かなり「芸術映画」テイストが強かったです。


FOUJITA、すなわち藤田嗣治は、1886年生まれの画家。
新時代の芸術が次々と生まれた
1920年代のパリで名を成し、一躍時代の寵児となりましたが、
第2次世界大戦中は日本に戻り、数々の「戦争画」を描きました。
戦後、それらの作品が翼賛的であったとの批判を受けて、
日本を離れ、フランスに帰化。
二度と日本には戻らず、フランスで没しました。


***


前半は、既にパリで成功をおさめ、
刹那的で享楽的な生活を送る藤田の生活を、
後半は一変、
第二次世界大戦中の日本に戻って「戦争画家」となり、
疎開先で敗戦を迎えるまでの時期を描いています。


説明的場面はほとんど排され、
藤田の生涯を全く知らない人には話が飲み込みづらいと思います。


映像はかなり凝っていて綺麗です。
日仏合作の映画ですが、
ヨーロッパ映画を思わせる美しい映像が観られます。


***


前半は特に、フレンチ・テイストです。

パリの芸術コミュニティの中で、
「FOUFOU(フーフー、お調子者)」とあだ名された藤田が、
女を踏み台にしながら成功し、
巧みなセルフ・プロデュースによって、
常に耳目を集めようとするしたたかな姿がうまく描かれています。

ただ、実際にヨーロッパ人が作る作品より、
テンポが緩慢で重苦しい印象です。
乱痴気感がなく、「冗談」も狙った感じで、
すべてがかっちり真面目過ぎる感じ。



後半の舞台は、パリから一転して、戦中の日本。
パリの瀟洒で豊かな生活から一変、
「前近代」としかいいようのない日本の田舎の風景。

視覚的な落差は大きいです。


このギャップによって、観ているほうはこう思います。

ヨーロッパの生活に馴染み、
ヨーロッパ人と渡り合ってきたフジタという我の強い男が、
戦時下の日本の社会に適応できるものだろうか…?


しかし、藤田嗣治という人は、そういうことができる
「FOUFOU」な特性を持ち合わせた人物。

彼が描く対象は、スタティックな白磁の女性ヌードから
悲劇的物語を語る群像表現へと変貌。


軍服をまとって『アッツ島の玉砕』展示の横にたち、
絵を文字通り「拝み」にくる人々を観察する藤田。

自分の絵画を売り込むに長け、
自分の能力に強い自負を持った藤田は、
戦争遂行という大きな物語を得て、
絵画史に残る「歴史画」制作の絶好機会と捉えたでのでしょう。


「絵画はたとえ物語が消え去っても永遠に残ります。」


ヨーロッパ事情にくわしかったであろう藤田が、
日本の戦況をどう読んでいたかはわかりませんが、
敗戦になっても、戦争の記憶が完全に過去になっても、
自分の絵は残る、と確信していた。

この映画では、フジタはそのような人物です。


後半は、前半に比べても淡々とした場面が続きます。
戦争中とはいえ、疎開先の生活のためか、
藤田の生活はほとんど穏やかといってもいいくらい。


一方で、夢か現かわからない場面も多くなります。
藤田自身が、疎開先の風景や伝説から創り出された、
土俗的な幻想に迷い込んでいたかのようです。


この現実と幻想がまじる構成によって、
「戦争」は、フジタにとって、
まるで「狐にばかされたこと」のように描かれます。

この戦争表現はかなり変わっていて面白いと思います。



エピローグは、
藤田が最晩年に手がけた、
ランスのチャペルの壁画が画面に映し出されます。

この辺りは、タルコフスキーの『アンドレイ・ルブリョフ』
を思い出す方も多いかと思います。


パリでの栄光と、
「歴史画」に対する期待と戦後の失望を経て、
故郷を捨てた藤田が、最晩年に何を思ってこの絵を描いたのか。

戦後の彼が罪の意識に苛まれた、とは思い難いのですが…。


***


すんなり観られる映画ではありませんが、
折にふれて思い出されるような、不思議な映画です。

藤田の展覧会や本を読んだりする機会に、
あわせてご覧頂くといいのではないでしょうか。









 
ジョージ・クルーニーが二枚目すぎやしないだろうか?

映画「ミケランジェロ・プロジェクト」鑑賞


オススメ度★★☆☆☆


原題 The Monuments Men
2014 アメリカ 118分
監督 ジョージ・クルーニー



***


第二次世界大戦下のヨーロッパ、
芸術作品は容赦ない爆撃と
ナチスドイツによる略奪にさらされていた。

そのことに危機感をつのらせた
アメリカの美術史家が、
ルーズベルト大統領にかけあい、
学芸員や芸術家等をあつめて
美術品救出のための特殊部隊を編成、
実際に戦場に赴いた・・・。


この実話をベースに、
ジョージ・クルーニーが監督し、
軽妙で一風変わった戦争映画を作りました。


【感想】
題材自体は非常に面白いのだが、
コミカルで軽妙な演出および
豪華だが知的には見えにくいキャストと、
ストーリー背後に見え隠れするメッセージとの食い合わせがわるく、
全体にチグハグな印象を受けた。


**

まず、出だしがスピーディーすぎたのかもしれない。

ジョージ・クルーニー扮する
ハーバード大学付属美術館館長のフランク・ストークスが
戦争遂行中のルーズベルト大統領に直談判し、
全米で仲間(モニュメンツ・メン)を勧誘していくところから
映画がはじまるのだが、
このあたり、スピードがはやすぎて、
だれが誰だか理解できない間に話が進んでしまった。
(私の脳の速度が遅いだけかもしれない。)

ジョージ・クルーニーがまず誘うのは、
メトロポリタン美術館で学芸員を務める
マット・デイモンだが、
背景が飲み込めていなかった私は、途中まで、
この二人は軍歴があり、
そこでの旧友なのだと思ってしまった。

だって、外見的に、二人とも強そうなんだもん。
軍服なんか着たら、職業軍人にしか見えない。

でも本当は、だれも軍隊経験がない、という設定らしい。


今回の映画で、
プロジェクトメンバーとして取り上げられたのは7名の男性だが、
(クレール・シモーヌ役をのぞく)、
みなどうしてもそれなりの経験のある軍人さんに見えてしまう。

年齢や心身の障害などによって、
普通の兵士でないことを示そうとしているけど、
ちょっと不十分だと思う。

軍服を着ていても、若くても、
その会話や立ち居ふるまいによって、
高等教育を受けた知的エリートや芸術家が本分だ、
という印象を与えてくれないといけないと思うのだが
(というのも、そのギャップがこの映画のミソのはずだから)、
仲間同士のやりとりのコミカルさやフランクさを優先しているせいか、
ただのちょっと変わった任務を帯びた
のんびりした戦闘員に見えてしまう。


**

この軽妙な演出は、
死地に赴く彼らには重い覚悟があることや
(ストークスの仲間に向けた演説やモノローグなど)、
彼らを、実際に戦場で命をかけて戦う兵士と同じだけの犠牲を払った
「英雄」として描こうとする意図がみえること
(アル中の歴史家の死の場面やクリスマスの野営シーンなど)
との食い合わせが悪いような気がする。


**

何度かストークスの口を通して語られる
ストーリー背後の「大メッセージ」も
この映画のノリにのることを躊躇させるところがある。

その「大メッセージ」とは、
「何百年の時を経て残された芸術作品は尊く、
それを守ろうとする我々の努力は
人命と同等かそれ以上に尊い」
ということ。

根源的に、
芸術作品も人間の生命も、
一度失われては二度と取り戻せないものである。
どちらも失われるべきでないものである。

ただ、「人命にくらべたら芸術作品など取るに足りない」
というのは一般的な見解だと思う。

だから、
「戦争が終われば、人はまた増える。
しかし芸術作品は失われてしまえば永遠に戻らない」、
とストークスがひとりごちる時、
私のように芸術に価値を置く人間であっても、
ちょっとギョッとしてしまう。

それが、一般的な見解を超えての
ジョージ・クルーニーの意見である、というなら
それはそれで全然いいのだが、
このメジャー受けするような映画の雰囲気との間には、
どうしても大きなギャップがあり、
そのせいで、
ノリのいい話の途中でこのメッセージがはさまれると、
観る者は一瞬混乱してしまうのだ。


「文化的価値があるもの」の多くは、
大衆にとっては取るに足らない。
そこに、読み解くべき膨大で唯一無二の歴史や
復元不可能な美と技術が封じ込められていたとしても。

ジョージ・クルーニーが、
「文化的価値」やそれを大切に思って命を賭して
戦った人たちのことをを皆にわかってもらいたくて、
この映画をつくったのは分かるけど、
映画全体としては(言葉としてではなく)、
そのメッセージを上手く伝えられてない、
というのが私の感想だ。


**

まあ、話はちぐはぐとしてはいるが、
「サスペンス」的要素によって
映画はそれなりの推進力をたもっている。

そのサスペンスとは、
①ナチスは、占領地(フランス、ベルギー等)から奪った
 芸術作品をどこに移送し、保管しているのか?
②敗戦色の強まったドイツ軍が芸術作品を破壊するより早く
 作品を見つけ出すことはできるのか?
③反ドイツ側で参戦してはいるが、
 戦利品として兵士達に芸術作品の略奪を許しているソ連軍より先に、
 作品を見つけ出して、移送することができるのか?


サスペンスを最後まで保ちつつ、
軽快なスピードで繰り広げられる展開。

史実だと思ってみていると、
「えー、ホントにこんなことがあったの?!」と驚いたが、
パンフレットを読む限り、事実とは遠いようだ。

映画は下記のノンフィクションに基づいている。
Robert M. Edsel著
The Monuments Men:
Allied Heroes, Nazi Thieves,
and the Greatest Treasure Hunt in History

(邦題『ミケランジェロ・プロジェクト』)


「モニュメンツ・メン」は、
1943年6月、アメリカ大統領ルーズベルトが承認した
戦闘地域に置ける記念的建造物、美術品、公文書の保全
に基づいて設立された委員会が組織した特殊部隊
MFAA(the Monuments, Fine Arts, and Archivesの略)のこと。

「Monuments Men」と銘打つHP(著者エドゼルのHP?)をみると、
MFAAは、13カ国345人の美術関係者が組織していたとのこと。
そして、組織は大戦後6年ほど存続し、
作品をもとの所有者の手に返還する作業が続けられたという。


登場人物には、それぞれモデルとなる人物はいるが、
ジョージ・クルーニーが、
それぞれ独自のキャラクターを作り上げたらしい。
ストーリーもかなり違うのだろうと思われる。

原作の本はまだ読めていないが、
是非読んでみたいと思う。


**

最後に、キャストについて。

フランス人学芸員役のケイト・ブランシェットが
少し気持ち悪い女性に見えたのが気になった。

そもそもは、
男性があまり興味をもたなそうな地味な、
でも勇敢で知的(”フランス風なエスプリもある”)な女性、
という役柄だろうと思う。
でも、それには、
ケイト・ブランシェットはゴージャスすぎる。
ムリに役に合わせようとしすぎて不自然になってしまったのか?
ここはフランス人女優を使えばよかったのに。

それにしても、この映画のスクリーンの中で、
ジョージ・クルーニーは2枚目すぎる。
ハンサムを拝めるのはありがたいことだけど、
でもやっぱり悪目立ちしている。

個々の俳優はみな実力派だけど、
全体的にキャスティングが合っていなかった、
ということか・・・。


**


ハリウッドよりは、
ヨーロッパでつくってもらいたかった映画かもしれませんね。

でも、MFAAという存在へのイントロダクションとして、
ヨーロッパ美術に興味がある人は、
絶対観た方がいい映画だと思います。



【参考】
・Monuments Men
http://www.monumentsmen.com/the-monuments-men/heroes

・映画パンフレット







 
死者ははたして許してくれているのだろうか?

映画「父と暮らせば」鑑賞
2004 99分
日本
監督 黒木和雄 



オススメ度★★★★★


井上ひさし原作の舞台作品の映画化。

原爆投下から3年、
原爆を経験した23歳の女性が恋をするが、
死んだ者に対する罪悪感から、
なかなか新たな生に踏み出せないでいる。

そこにふと現れた、原爆で死んだはずの父。
父との対話の中から、彼女が喪失感や絶望を乗り越えて、
死んだ者の思いを語り継ぎ、
次世代をつなぐ存在としての
自分の生を肯定するまでの4日間を描く。


舞台での2人芝居をもとにしているが、
映画的なアレンジが効果的に加わっている。


***



「あのときの広島では、
死ぬことが自然で、生きることが不自然」


宮沢りえ演じる美津江のセリフです。


自分よりも幸せになるべきだった優秀な友人が
酷い仕方で死んでしまった・・・。
一緒に逃げた父親を助けられず、
結果的に父親を見捨てて自分だけ生き残った・・・。

彼らを差しおいて、
自分だけ幸せになるわけにはいかない。

大勢の人間が一度に死ぬような
過酷な(原爆)体験を生き延びた人間が
どうしても感じてしまう罪悪感・・・。


だが、それでも、
いやおうなしに自分の生命は続き、生活は続く。

あるいは、厭世的になって、人間と社会をうらんで
暮らすこともできるでしょう。


でも、罪や申し訳なさを感じつつ、
「恋」という、いやがおうにも湧き上がる
生命力ある感情にまっすぐ向き合う時、
彼女の心の中にはなにが起こるのか。


***


もとが役者二人で構成された舞台作品ということで、
まずは、俳優の演技が作品の骨格を作ります。

力強く優しく少しお調子者の父親を
今は亡き原田芳雄
3年経っても原爆の傷を癒すこともせずにいる
素直で純粋な心をもつ、まだ少女のような女性を
宮沢りえが演じています。

双方適役であり、素晴らしい演技でした。
(一方で、別の組み合わせでも観たいです。)


映画化にあたっての改変もあります。
原作では、登場人物は父と娘のみだそうですが、
映画では、三津江が恋する木下という男性が登場。
その男性を演じるのは浅野忠信で、
「風立ちぬ」の堀越二郎メガネをかけた学者です。

さらに、舞台にはない演出として、
原爆投下時の広島の惨状や復興する町の様子が再現されます。
また丸木位里・俊夫妻の絵画によって、
その酷さが象徴的に映像化されています。


舞台をそのまま映画に閉じ込めたようでありながら、
映画でしか出来ない効果的な演出
(回想シーンの映像化や役者の表情の演技も含め)があって、
やっぱり全体としては、
映画として計算され尽くした作品なのだと思います。


もうひとつ印象的なのは音楽です。。
ピアノが、美しくも不協な和音を奏で、
遠くでしたたる水音を聴いているかのような、
不可思議な心象を与えます。

美津江の感情が高まるときも、
非常にセンセイショナルな原爆投下時の様子が語られるときも、
どこかで観る者の完全な感情移入を妨げ、
映像を客観的なものに、
感傷的でないものにしている気がしました。


***


この作品は、
美津江(生者)と父(死者)との対話を通して、
過酷な体験のサバイバーが、
人間的な再生をとげる物語。

生者は、死者の許しを受け、
彼らから「譲られた」生を感謝して受けずには、
新たな生へと踏み出すことはできないのです。



ところどころで胸を打たれ、胸を塞がれ、
最後には心が洗われるような作品でした。
原爆を題材とした映画の傑作の一つだと思います。





 
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