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プロフィール

如月東子

Author:如月東子
C’est l’enfance de l’art.へようこそ。
(セ・ランファンス・ドゥ・ラール)

昔から絵を見るのが好きで、美術系の大学に行き「美術史」などを少し勉強しました。

その後、美術とは関係ないお仕事についたけど、美術について、普通の人よりはちょっぴりだけ多く考えてきました(多分)。

そんな私が、これまで美術鑑賞をするなかで気づいたこと・感じたこと・考えてきたことの中には、美術をもっと楽しみたいと思ってる人に、なにかヒントになることがあるかもしれません。

美術鑑賞の記録を中心に、美術館などの紹介や鑑賞の役に立つ情報などを載せていければ、と思います。

皆さんのお役に立てれば幸いです☆

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ココこんなとこ! 〜大和文華館(奈良)〜

こんにちは如月東子です。

比較的小さい美術館などを訪問して、
どんな美術館だったかの感想を書くコーナーです。


***


今日は、奈良県の大和文華館をご紹介します。
日本美術を扱う美術館です。


東大寺などがある近鉄奈良駅から4つめ
「学園前」という駅から
歩いて10分ぐらいのところにある美術館です。

高級住宅地なのかと思いますが、
駅からの道行きには立派なお家がたくさん並んでいました。


美術館の入口の門の前は奇麗に整備されていて、
駐車スペースも広く取られています。

大和文華館


入口の手前に古い建物が移築されていましたが、
辰野金吾設計の奈良ホテルの本館の一部だったそうです。


文華ホール


門を入ると少しスロープのある木立。
植樹の案内があるところをみると、
折々のお花が楽しめるようです。

先日は、サザンカが満開でした。


サザンカ


美術館の建物は、ナマコ壁というのでしょうか、
青いパネルのようなものが整然と貼られていて、
白い壁と手前の白い砂利によく生えます。


建物



中に入ると、右手にミュージアムショプ。

そのまま正面に展示室があります。
展示室は一室のみのようです。

天井が高い設計で、
屏風などの比較的大きな作品も
後ろにさがって見られるスペースが
きちんととれるのがよかったです。

入口と反対側まで回ってくると
大きな窓がありバルコニーから外が臨めます。

借景というのでしょうか、
川にレトロな橋がかかり、その向こうに山並みが見え、
一幅の絵画のようです。


借景



私が訪れた際は、
特別展〈酒井抱一ー江戸の情緒の精華ー〉が開催されていました。

おのおのの作品に対して解説はかなり多めでした。

個々の作品に対する説明だけでなく、
背景知識を説明するキャプションもあり、
抱一についての知識が少ない私でも、
この画家についての概要をつかむことができました。

前期・後期と作品の入れ替えもあったようで、
一回に見られる作品数はさほど多くはありませんでしたが(40点ほど)、
解説が多いこともあって、それなりに満足感がありました。
 

***


平日の昼間ということもあり、まったく混んではいませんが、
この規模の美術館にしては、まあまあお客さんがいるかな、という感じ。
また、解説が多いので、多少、観覧者の流れが滞ることがあります。


お客さんは、やはり年配の方が多め。

私が二歩ほど下がった位置でカリカリとメモを取っていると、
遠慮して前を避けていかれる方が多く恐縮しました。
ガツガツと見ている私は
ちょっと場違いだったような気がします。

もうちょっと余裕を持ってノンビリ見たいのですが…。


紅葉やお花の時期に合わせてお友達連れでいくと良さそうです。

ちょっとしたカフェなどが併設されていいるといいのですが!


大和文華館
近鉄奈良線〈学園前駅〉下車 徒歩7分
毎週月曜日休館
10:00~17:00(入館16:00まで)
平常展・特別企画展 一般620円
特別展 一般930円

http://www.kintetsu.jp/yamato/index.html

中野美術館、松伯美術館などの美術館が近くにあります。

機会がありましたら足をお運びください。


今日はこれぐらいで。
それではまた。

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伝統的西洋絵画の最終局面?〜ホイッスラー展

こんにちは如月東子です。

前回の〈ボストン美術館 華麗なるジャポニスム展〉に引き続き、
京都の岡崎公園内で開催中の
京都国立近代美術館〈ホイッスラー展〉の感想です。


***


この展覧会は、ジェイムズ・マクニール・ホイッスラー
(James McNeill Whistler 1834 - 1903)
の回顧展。

ひとりの画家に焦点を当てた展覧会と言うことで、
比較的初期の作品から晩年までの作品を一堂に鑑賞することができます。

章立ては「肖像画」「風景画」「ジャポニスム」となっています。


***


〈ボストン美術館展〉と関連してなのか、
今回の展覧会では、
ホイッスラーのジャポニスム運動の牽引役としての側面に
注目した解説が多かったように思います。


私自身も、ジャポニスムに引きつけて鑑賞していたのですが、
今回の展覧会をみるかぎりでは、
ホイッスラーの画業において、
日本的造形原理が果たしてどこまで大きい役割を果たしたか疑問である、
というのが正直な感想です。


…確かにホイッスラーは、日本美術から多く示唆を得ていると思います。

彼が当時の主流派の絵画から次第に離れ、
絵画に純粋な視覚的効果を追求するようになったのには、
浮世絵からの影響が大きいといわれているようです。

全く違う文化圏に属する日本の美術品から
19世紀の西洋社会に生きる画家ホイッスラーが受け取り得るもの、
それはまずもって「造形的要素」にほかならないはずですから、
そこから「絵画の物語・寓意からの自律」について
示唆を受けたのはよく理解できます。


また、キャプション等で解説されているように、
ロンドンなどの町並みを描くのに、
浮世絵的構図的をたくさん取り入れていますし、
人物画の構図にも浮世絵を参照したものがたくさんあるようです。

見ているままの風景を切り取って絵画にすること自体が新しかった時代に、
浮世絵は、散文的な街角をどのように切り取るのか、
物語性を排した人物像をどう配するのかを考える上で
おおいに役立っただろうと思われます。


前回感想を書いた〈ボストン美術館展〉では、
当時の画家の印象的な言葉が紹介されていました。

「日本美術は近代性を表現するための効果的要素である」

日本美術的要素はなによりも
「近代性」を表すものと感じられていたのです。

当時の「伝統(権威)」に
飽き足らないものを感じていたホイッスラーに、
造形に対する新しい視座を与え、
生き生きとした現代性を持って迫ってきたのが
日本美術だったのだろうと思います。


***


一方で、
今回「ジャポニスム」の章で紹介されている彼の作品は、
「日本趣味(Japonaiserie)」の範囲にとどまっている
ものが多いように感じられます。

着物を羽織り、染付の壷を物憂げに抱える女性。
白いドレスの女性は団扇をもち、その側にはやはり、
つややかな染付の壷が画面に彩りを添えています。


ジャポニスムの最たるものが、
現在、アメリカのフリーア美術館に
一室そのまま保存されているという「ピーコック・ルーム」。

ホイッスラーが内装をその思いのままにデザインした「作品」です。

展覧会では、高度な映像技術で室内の様子が再現されていますが、
ホイッスラー自身が描いた着物の女性を描いたタブロー
《バラと銀:陶磁の国の姫君》を中心に、
日本・中国をはじめとする東洋の陶磁器を効果的に配置したインテリアで、
本当にすばらしい美的空間です。
(実際行ったことはないので、おそらく)

ピーコックルーム
《ピーコック・ルーム》

陶磁の国のお姫様
《バラと銀:陶磁の国の姫君》
(フリーア美術館蔵 Smithsonian Institutionのウェブサイトから引用)

ただ、非常に効果的で美しいとはいえ、
日本美術とその空間との関係について問われれば、
それはひとつの装飾的要素にすぎないように思えます。

一つの趣味として、装飾的効果として、
日本的造形要素を取り入れているかもしれませんが、
日本美術の造形原理が、
ホイッスラーの造形に根本的な影響を与えたのかどうかは疑問です。


***


ジャポニスムから離れて考えてみますと、
そもそも彼の絵画作品は、
印象派のようには
直接次世代につながるものではなかったようにもみえます。

印象派はやがて後期印象派・新印象派へと続き、
ナビ派・キュビスム・フォーブのように
20世紀の美術の動きにまで展開していきますが、
そのような造形性がホイッスラーの作品自体にあったか?


「芸術のための芸術」という標語のとおり、
寓意性・物語性は排されたかもしれず、
画面は「色調の調和」の原理に厳格に律されていたかもしれませんが、
彼の作品は最後まで、
伝統的な造形のうちにあった、という風に私は感じました。

キャプションによると、
ホイッスラー自身、
1866年頃に「アングルの弟子であったならば」と
古典主義的絵画を学ばなかったことへの後悔を語っていたそうです。


「芸術のための芸術」ときくと、
具象的要素はぎりぎり残しながらも
色と形が現実世界から解き放たれたような
装飾的画面の世紀末芸術を思い浮かべますが(クリムトのような)、
果たしてホイッスラーは
あのような「画面の自律」を思い描いていたのでしょうか?


ホイッスラーの革新的理念は、
実はそれほど造形的な革新を伴ってはおらず、
彼が絵画画面上でなしたことは、
西洋絵画を伝統的造形要素の範囲の中で、
美的に完成させることであったのかもしれません。

それは旧絵画の最終局面の美しさではないでしょうか。


***


もちろん、
ホイッスラーはオピニオンリーダー的な人だったようですから、
彼の後世への影響は様々にあるのだと思います。

ただ、理念上の影響と、
彼が直接視覚化したものが与えた影響は
分けて考えた方がいいのかもしれません。

ホイッスラーを称するのに、
「作品は繊細であるのに、性格は論争的である」
といわれていた、というのを読みましたが、
オピニオンリーダーとしてのホイッスラーと
作家としてホイッスラーが表現した画面には
差異があるかもしれません。


***


〈ボストン美術館展〉との対比で考えると
ジャポニスムの受容を経て、
最終的は伝統的西洋絵画の「形」を解体するに至ったモネは
ホイッスラーを超えてずいぶん先に進んだのでしょう。

まあ、6歳しか齢が離れてないとはいえ、
ホイッスラーの死後、23年も生きたモネの画業の発展を
同じように比較することはできないのだとは思いますが。


ホイッスラーの伝記的な側面を読んでいると、
むしろマネと対比のほうが適切なのかもしれません。

1863年の「落選展」
(アカデミーのサロンで落選した作品を集めた展示会)には、
かの有名なマネの《草上の昼食》とともに、
ホイッスラーの《白のシンフォニーNo.1 ― 白衣の少女》が展示され、
共にスキャンダルをよび、衆目の関心を集めたようです。

白のシンフォニーNo1
《白のシンフォニーNo.1 ― 白衣の少女》
(ワシントン・ナショナル・ギャラリー蔵)

ホイッスラーはマネと同様、
革新的理念に基づき、次世代の画家に多大な影響を与えながらも、
伝統的絵画表現の枠内にかろうじてとどまり続けていたように思います。


***


ホイッスラーという画家とその作品から
どんどん興味が広がっていきます!

ホイッスラーに関しては日本では27年ぶりの回顧展ということですが、
以前はどのような切り口で紹介されたのかも気になるところです。


ぜひご覧になって色々考えをめぐらせてみて下さい。


〈ホイッスラー展〉
会期:2014年9月13日ー2014年11月16日
会場:京都国立近代美術館

http://www.jm-whistler.jp/

京都での会期末が間近になってしまっています。
お早めに足をお運びください。


ちなみに、常設展のほうでも
「特集展示 キュレトリアル・スタディズ07」として
「日本近代洋画と浮世絵」という特集がされていましたので、
お見逃しなく。

【巡回】
横浜美術館
2014年12月6日ー2015年3月1日


今日はこれぐらいで。
それではまた。


追記:
今回、多くの作品を出品したグラスゴー大学のサイトに、
ホイッスラーのエッチングのカタログレゾネ(全作品目録)が
掲載されていました。

今回きている版画のセットの全作品をみることができますので、
彼の版画に興味をもたれたら参考になさってください。
http://etchings.arts.gla.ac.uk/catalogue/sets/

追記2:
ミュージアムギャラリーで目にしましたが、
カタログにも寄稿されている小野文子先生のご著書。
まだ読んでませんが、内容がぎゅっとつまっていそうで面白そうですね。


美の交流―イギリスのジャポニスム美の交流―イギリスのジャポニスム
(2008/06/30)
小野 文子

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融解したものから新しく湧き上がるもの

こんにちは如月東子です。

現在京都市美術館で開催中の
〈ボストン美術館 華麗なるジャポニスム展〉、
京都国立近代美術館で開催中の
〈ホイッスラー展〉に行ってきました。

この二つの美術館は、
平安神宮のそばにあるお向かい同士。

なので同じ日に訪れました。

京都市美

京都近美


意図してかどうかわかりませんが、
同時期の作品を扱っているため互いに関連し合う内容です。

近くで開催してくれて、見る方はラッキーですね。


今日は、〈ボストン美術館〉展の感想です。


***


この展覧会は、19世紀後半から20世紀初頭にかけて
ヨーロッパそしてアメリカでおこった
ジャポニスム運動(Japonisme)に焦点を当てています。

出品作品は全てボストン美術館の所蔵作品から選ばれたもの。

ボストン美術館は、
世界有数の浮世絵コレクションを有する美術館であると同時に、
印象派のコレクションでもその名を誇る美術館です。

その中から、
浮世絵とその影響を受けたと考えられる
19世紀後半から20世紀初頭の
ヨーロッパ・アメリカの絵画・工芸品を選び、
隣り合わせて展示しているのが、
この展覧会のユニークな点です。

作品のセレクトはボストン美術館側がしているとのこと。
日本趣味・女性・シティライフ・自然・風景のテーマごとに
章立てされています。


***


会場に入ると、人がちょっと多いので、
最初は足早に入口から出口まで比較的早めに進むことに。


浮世絵と油彩画、浮世絵とポスター、
刀の鍔と西洋ナイフ、
不可思議な日本的モティーフをとりいれた工芸品…

浮世絵の名品とその影響下にある作品が
隣り合わせに並んでいます。


…見ながら、ちょっとだけ違和感を感じます。

違和感を感じるというか、
「単純には感じるのが難しい」
と感じるのです。


この展覧会を見るとき、
私たちはざっくりと、こんな知識を持っています。

 「19世紀後半(特に日本の開国以降)、
 浮世絵をはじめとする多くの日本の美術品が欧米に渡った。

 それらの作品を目にした
 フランスをはじめとする欧米諸国の芸術家たちは、
 自分たちの伝統にないその表現方法に非常な衝撃を受け、
 その受容に努める。

 日本美術は、西洋の造形芸術の原理を根本的に揺さぶり、
 西洋の造形的伝統に対する変革の一つの原動力となった。

 その影響は「日本趣味(Japonaiserie)」にはとどまらず、
 印象派、アーツ・アンド・クラフツ運動、アール・ヌーヴォー等、
 様々な芸術運動へと発展していった。」


頭ではわかっています。

でも
目の前でみている作品からは
単純にそういうことが「感じられない」のです。

頭にある知識に基づいて、
無意識のうちに、
目にしているものからあるメッセージを読み取ろうと努めるのですが、
どうしても感覚と理解との間に距離を感じずにいられない、
そんな状態に陥って、変な感じがしてきます。


この違和感はなんなのか?


…そう、
これは当たり前ですが、
まずもって私たちの目には、
純粋な「浮世絵ショック」が感じられないのです。

そしてまた、今の私たちには、
浮世絵に影響を受けたヨーロッパ人の作品の「革新性」というものを
感じ取ることが難しいのです。


でも、それは当然のことです。

まず第一に、日本に暮らす私たちは、
なんだかんだいって
江戸の庶民が親しんだ日本絵画の見方を知ってしまっています。

もちろん、
どこまで日本の伝統絵画に親しんでいるのか問われれば、
なんとなくのイメージしかもっていないのは確かですが、
それでも、「日本的な」絵画空間や「日本的な」造形物を見たときに、
なにが自然でなにが不自然なのかわかるくらいには、
身近で親しみがある場合が多いでしょう。

私たちは日本の伝統的な造形文化の規範を
知らず知らず内面化しています。

そんな日本の私たちが、
19世紀の西洋人の驚きを持って浮世絵を眺められるか…?


でも問題はもっと根深いのです。

お気づきの通り、
私たちは「革新」以降のイメージに慣れすぎてしまっています。

確かに、今回のように並べて提示してもらえば、
19世紀の欧米作家の構図に、
浮世絵と似通ったところを見つけるかもしれない。
同じような色彩の対比を見るかもしれない。
そしてもちろん、
それぞれの作品のすばらしさは十分感じられることでしょう。

でも、「革新」は感じられません。

すでに私たちの視覚文化は、
浮世絵を受け入れた西洋絵画に、
西洋絵画を受け入れた日本画や洋画(≒日本人作家による油彩画)に、
いえ、世界中のあらゆる造形を取り入れた
世界中のあらゆる造形芸術に慣れきっているのです。


だから浮世絵とその影響下にある作品が隣同士になっていても
「似ている」比べはできるかもしれませんが、
その真の影響関係は測ることができないのです。


「新鮮な目」があれば!


常に多種多様なイメージが楽しめる現代の私たち
であるからこその贅沢な悩み。

なんらかの知識で補強し、想像力で補ってはじめて、
当時のフレッシュな感動や意味をよみがえらせることができる。

自分の目だけに頼っていては、得るべきものが得られない。

ここに「新鮮な目」があれば!


…でも幸か不幸か問われれば、
やはり様々な文化を等価に楽しめる幸せの方が大きいのです。

まず自分の感覚の前提を気づき受け入れてから、
図式的・教科書的な理解から、一歩でも先へと進むことにします。


***


この展覧会に関連してひとつ思い出す展覧会があります。

2006年に東京国立近代美術館において開催された
〈揺らぐ近代—日本画と洋画のはざまに〉という展覧会です。
http://www.momat.go.jp/Honkan/Modern_Art_in_Wanderings/index.html

これは、開国以降の「日本における」
西洋絵画受容をテーマにした展覧会でした。

高橋由一らによる油彩技法の導入から始まり、
油彩画による日本的モティーフの取り込み、
「日本画」における西洋的遠近法の消化など、
日本人画家による西洋絵画の受容と消化の足跡を追うもので、
今回のボストン美術館展のまさに対になるような内容です。


新しい技法・原理の消化には、少なくとも30年はかかった
というのが、そのときの私の感想でした。

最低でも30年。

岸田劉生(1891〜1929)の世代になってはじめて
油彩画としてこなれた表現が可能になった、
そんな印象を持ちました。

造形芸術の分野においては
すでに長い伝統と高い技術を有していた日本人にして、
「油彩」という新しく奥深い技法を扱うことの難しさ…。
単なる技術的な面でもこれだけ苦労するものなのだ。

明治初頭の拙い画面を見ながらつくづくと感じました。


翻って、今回のボストン美術館展に目を転じてみると、
日本絵画を受容した西洋人達は、
技法的な苦労はさほどしていないようにもみえます。

すでに彼らの手のうちには、様々な表現技法がありました。
油彩・水彩・銅版・リトグラフ、
デューラーの名を挙げるまでもなく、
木版の伝統もありました(主流ではなかったにしても)。

そうであっても、
これまでの伝統的西洋絵画体系に日本の色彩・構図を取り込む、
と言うのは簡単にはいかなかった。

伝統的西洋絵画と非遠近法的空間は食い合わせが悪く、
三次元的ボリューム表現にコントラストの強い色彩を施せば、
画面がどぎつくなります。


展覧会の目玉でもあるモネの大作
《ラ・ジャポネーズ》は1876年の作。

横浜開港が1860年ですから、
長く見積っても日本絵画の本格的受容から20年経っているかいないか…。

力作ではありますが、日本文化になじんだ人間から見ると、
どうみても奇抜な作品。
外国からの観光客が、
旅の思い出に着物を着て歩いているのを眺めるときの
あの居心地の悪い感じ。


来日したこともあったというジョン・ラファージ(John La Farge)の作品
《ヒルサイド・スタディ(二本の木)》は1862年。
映像リンク

浮世絵の構図を取り入れたという作品ですが、
明らかに旧体系に属する絵画です。


日本の造形原理を消化するまでにはやはりそれ相応の時間がいりました。


今回の展覧会に来ているヨーロッパ・アメリカ作品には、
1890年代以降の作品が多いように思います。
見ていて違和感のない美しい作品が多い。

「日本美術」の造形的要素が西洋絵画の新しい造形原理に組み込まれ、
すでに「日本美術」とは見分けがつかないものとなった段階の作品。
おそらくそのような作品をピックアップして
浮世絵盛期の傑作と隣り合わせているのでしょう。


ヨーロッパにおける日本美術の「消化」とは、
逆から言えば、日本的造形原理の西洋芸術への「融解」でもあります。

その段階になれば、
日本的要素はすでに明瞭ではなく、
日本的要素に分節化しても、その作品の特性を表現し得ません。

日本的なものを探せば西洋的なものを感じ、
西洋的なものの中に非西洋的ななにかを感じるという循環。


日本と西洋の両作品が並んでいると、
思った以上に複雑な感覚がわき起こってきます。


西洋における日本的造形原理の融解という視点は、
展覧会最初の「日本趣味」の章と
最終章「風景」における数点のモネ作品によって
十分に示されてもいます。


ジャポニスム運動の経過を辿りつつ、
日本美術をみごとなまでに吸収した
ヨーロッパ芸術の良品を紹介するという、
高度な構成の展覧会。

図式的な理解を超えた不思議な感覚を呼び起こしてくれる
面白い展覧会でした。


〈ボストン美術館 華麗なるジャポニスム展ー印象派を魅了した日本の美〉
会期:2014年9月30日ー2014年11月30日
会場:京都市美術館
http://www.boston-japonisme.jp/top/

お近くの方はぜひ足をお運びください。


次回は、ホイッスラー展について書ければと思っています。

今日はこれぐらいで。
それではまた。




 
美術館に行こう!(展覧会編③)〜見どころは何ですか?〜 

こんにちは如月東子です。
すっかり寒くなってきましたね。


前回に引き続き、
「会場は2度(以上)まわる」必要性について書いてみます。


前回は、展覧会場を2回以上まわって
企画者の意図を理解することで得られる楽しみ、
ということをお話ししましたが、
それはもっと重要な体験の前段にすぎないかもしれません。


今回は、
「あなたにとっての見どころ」を発見するためにも
ぜひとも二周はしたい、というところを説明したいと思います。


***


さて、実際に出品作全てにひととおり目を通してみて、
企画者から提示された内容の中で、
あなたはどう感じたでしょうか?

なにか見たりない、と感じたところがあったはずです。
メインのポイントではないはずなのに、
妙に興味が引かれたところがあったはずです。

それが知的興味なのか、美的な興味なのか、
それとももっと別の興味なのか、
それは人によって違うと思いますが、
企画者の意図を離れて「自分」が作品と向き合うのは、
ここからです。


大事なのは、企画者の意図をふまえた上で、
自分がなお何を感じたのか、ということです。



たしかに、
自分の興味を引く作品だけじっくり見て味わえればそれでよい、
そういう楽しみ方もあります。

でもそれは自分のフレームをひとつも変えない見方です。

「その作品との出会い」もとても貴重な体験ですし、
時にはそのインパクトに勝るものはない、ということはあります。

でも、それだけでは自分の幅を狭めるだろう、と思うのです。


一応最初は、相手の誘導にのってみる。
その意図もある程度理解した上で、
じゃあ自分はどう考えたのかを見つめてみる。


展覧会全体を俯瞰してみたときに、
その企画者がした構成以上のなにかを作品は発しています。

作品が発しているメッセージは、
客観的に多くの人がそう感じられるものなのか、
あなた個人だけが感じられるものなのか、
とりあえずはわかりません。


でも、ひとつのハードル(企画者サイドの意図)を超えて
自分のところにくる何かがきっとある。


特にフィーチャーされているわけではないけれど、
自分にとってある作家を理解する上では
キーとなる作品があるかもしれません。

自分が持っている知識とヴィヴィッドにつながって、
ぱっと視界がひらけるような作品があるかもしれません。

ときには、企画者の意図したテーマと別のなにかを
作品から受け取ってしまうことがあるかもしれません。


それがなんにせよ、
作品からのメッセージを受け取るには、
自分のなかにわき上がってくる細かい気持ちや気づきに
時間をかけて耳を傾けるほかありません。

その作品の前を1回通り過ぎただけで帰ってしまっては、
その時間は永遠に失われてしまうのです。


多くの人は、
なんとなく順路に沿って順番に作品を見て、
たまに有名作品に立ち止まるだけで満足しているか、
あるいは逆に、
自分の興味にフィットする作品にだけに注目して喜んでいるだけ
かもしれない。

ですが、
展覧会を企画した専門家にとっての「見どころ」

あなたにとっての「見どころ」

を意識することで、もっとずっと深く
その展覧会を楽しむことができるはずだと私は思います。


そのためには、出口まで来たらもう一度入口まで戻ってみましょう。
(他の方の迷惑にならないように)

どんな作品が先にあるのかもうわかっているので、
なにかを見損ねるのではないかと心配する必要もありません。

さっきは人だかりができていた作品でも、
今度は人が空いているかもしれません。

なにかつかめるまで、できれば何度でもウロウロしましょう


一見ではたどり着けない何かがつかるはずです。



お風邪を召されないように。

今日はこれぐらいで。
それではまた。


 
美術館に行こう!(展覧会編②)〜企画者の企み?〜 

こんにちは如月東子です。

最近はなんの展覧会に行かれましたか?
新しい発見はありましたか?


「美術館に行こう!〜展覧会編①〜」で、
私の展覧会での絵画鑑賞ルールをご紹介しました。

 ◇ 会場は2度まわる
 ◇ 文字資料も読む
 ◇ 一定の距離・高さ・時間で見続けない
 ◇ 比較できる作品をみつけたら交互に見て比べる


まず「会場は2度(以上)まわる」必要について書いてみます。


***


皆さんは、展覧会場を何回まわりますか?


入口から順路に沿って出口まで行ったら、
もとに戻らず、そのままミュージアムショップへ
行ってしまいますか?


それはもったいない。


だって、一周して初めて、
その展覧会の見どころがわかるのです。


「見どころ」といっても、
チラシに載っている「目玉の作品」ではありません。

展覧会を企画した専門家にとっての「見どころ」

あなたにとっての「見どころ」です。



今日はまず
展覧会を開催する人たちにとっての見どころ
を考えてみましょう。


***


展覧会は基本的に「学芸員」が企画します。
学芸員さんは、専門をもった研究者でもあり、
その知識をもって展覧会のテーマを決め、
そのテーマに沿って作品を選び、展示します。


企画者がどういうことを考えてこの展覧会を企画したのか?

一巡したらこれを考えてみて欲しいのです。



展覧会場を一周してさっと出てしまうとなると、
だいたいの流れはわかっても、
目玉の作品だけに注意が向いてしまいがちです。

展覧会の「目玉作品」は、
たしかにそれだけでも一見の価値のある名作ですが、
それだけを見て満足していてはツマラナイ。

展覧会を一周してからもう一度後ろを振り返ることで、
構成の仕方や作品のセレクトから、
展覧会企画者のテーマや作品解釈がわかります。

たしかに展覧会の構成やセレクトは、
「出品リスト」をみればわかりますが、
実際の作品を目にしてみなければ、
本当のテーマ性はわからないものです。

なぜならオリジナル(現物)の作品の強さによって
印象がまるで変わってしまうから。


出品作全部の文脈の中に個々の作品をおいてみると、
それぞれの作品の意義が新しく見えてくることがあります。

個々の作品をより深く理解し楽しむことができるはずです。



そして
展覧会を2回まわって、いえ、何度も何度も会場を巡りながら、
そしてその帰りのみちすがら、
今見てきた展覧会に思いをはせてその展覧会の意味を考えてみる。


本を読むような楽しみ。


展覧会にいけば、たいがいの場合は、
予想しない気づきが得られるものですが、
それでも、

 ☆明確で丁寧な構成

 ☆新しく大胆な切り口

 ☆最新の研究成果と知見

 ☆深い作品理解と時代への考察…

そういうものに基づいて構成された展覧会に出会うと、
その展覧会を読み解くワクワク感で、
ものすごい精神的満足が得られます。



展覧会を企画した人の意図を読み取り、
作品をより深く理解する…、
そのためには、一周ではまず足らないでしょう!


次回は、「会場は2度(以上)まわる」ことで発見できる
「あなたにとっての見どころ」について考えていくつもりです。



今日はこれぐらいで。
それではまた。


 
美術館に行こう!(展覧会編①) 〜私の方法〜

こんにちは如月東子です。


美術館にはよく行きますか?

絵画、いえ、なんらかの美術作品を見たいと思ったら、
まず思い浮かべるのは「美術館」ですよね。

環境の整った美術館は、
じっくり作品を鑑賞するのにうってつけの場所です。


…でも、美術館ではなまじっか作品が順序よく並んでいるので、
最初からただ順番に見て、それでおしまいになってはいませんか?

美術館で作品をもっと深く楽しむにはどうすればいいのでしょうか?


「美術館に行こう!」では、
美術館での美術作品(主に絵画)の鑑賞についての
ヒントとなるようなことを書いていければいいな、と思っています。


***


ところで、美術館で絵画を見るといっても
コレクションをもった美術館の「常設展」を見に行くのか、
期間限定の「企画展・特別展」(=展覧会)を
見に行くのかで見方は違います。

今回はコレクションをもつ美術館の「常設展」ではなく、
ひとつのテーマで企画・構成された「展覧会」での
絵の見方を考えてみましょう。


***


私が考える、絵をしっかりと鑑賞したい人のためのルール。
それは以下のことです。


 ◇ 会場は2度まわる

 ◇ 文字資料も読む

 ◇ 一定の距離・高さ・時間で見続けない

 ◇ 比較できる作品をみつけたら交互に見て比べる


どうでしょう?
もうすでになさっていますか?


どれもすぐにできることですが、ただ、

 * 足をつかう(体力はある程度いる)

 * ある程度の時間の余裕をもつ

ことが必要です。


だから、ガッツリモードで美術館に行くときの鉄則。

 ◇ できるだけ歩きやすい靴を履いていく

 ◇ お腹が減ってない状態で行く


また美術館というのは、思った以上に寒いものです。

 ◇ 重ね着できるようにストール、カーディガンをもって入る。

というのも大事です。

夏でも足もとが冷えないように気をつけて。



今日はこれぐらいで。

それではまた。



 
「新印象派」との適切な距離

こんにちは如月東子です。

今日は、現在あべのハルカス美術館で開催中の
〈新印象派展〉の感想です。


ご存知のない方に少しだけ説明しますと、
新印象派/新印象主義(Neo-Impressionism)」というのは、
1980年代後半にフランスに現れた絵画の様式です。
別名「分割主義(Divisionism)」とも言われますが、
簡単に言うと、当時の最新の科学理論に基づき、
絵具の色を要素に「分割」して描く方法・美術運動のことをさします。

この様式の中心にいたのが
ジョルジュ・スーラ(Georges Seurat)という人物で、
彼によってこの手法が編み出され、確立しました。


***


さて、
正直なところをいうと、
私はこれまで「新印象派」というものに親近感がもてずにいました。
なんだか画面構成が人工的で、人物は人形のようだし、
色彩がぼんやりしている上に、全体的に冷たい印象。
理論的には意義があったのだろうけど、
鑑賞するにはなんとなく「面白みのない」一派と思っていたのです。


それに、
「分割主義」的手法を使えば
パレットで混ぜるより「色が鮮やか」っていうけれど、
「ホントにそうかなあ?」と思っていました。

だって、モネ(Claude Monet)みたいな
いわゆる「普通の印象派」のほうが、
筆致は自由でダイナミックだし、色もヴィヴィッドな感じがしませんか?


だから、今回は「見て楽しむため」というよりは、
「お勉強」と言う感じで展覧会に足を運んだのでした。

でも、本展覧会では、新印象派の魅力、
その作品を見る楽しみの一端に触れることができました。


***


展覧会の構成ですが、
スーラが、1880年のモネの個展に感銘を受けて、
画家になることを決意するところから始まり、
続いくスーラによる新印象派の手法の確立、その展開、
そしてその死とその後の動き・・・という章立て。


この展覧会を貫く糸はなんといってもスーラです。

「新印象派」理解のキモは、
やはりその創始者であり理論的支柱であったスーラだと思います。
そして、この展覧会でそのことがよくわかります。


ただし、本展覧会にきているスーラの作品自体は少ないです。
習作をのぞくと4点程度。

むしろ、スーラの運動に共鳴し、
スーラとともにこの美術運動を牽引してきた
ポール・シニャック(Paul Signac)や、
スーラの死後にシニャックと共に運動の中心を担った
アンリ=エドモン・クロス(Henri-Edmond Cross)の作品が多いです。


本展覧会で見られる重要なスーラ作品は、
1885年の《セーヌ川、クールブヴォワにて》(①)と
1888年の《ポール=アン=ベッサンの外港、満潮》(②)
だと思います。


スーラ①


スーラ②



①は、スーラが「新印象派」の手法を世に問うた
あの有名な《グランド・ジャット島の日曜日の午後》の
発表前年に描かれたもの、
そして②は1891年に亡くなるスーラの晩年の作品、
ということになるでしょうか。


たった3年の違い。
でも、それは長い長い3年だったことがわかります。


スーラは、それまで「印象派」が培ってきた
直感的な色彩リアリズム(「筆触分割」)を、
より厳密な規則性に落とし込み、
光によって生み出される色彩(光学的色彩)を
絵画画面上の絵具の色(絵画的色彩)で
合理的に表現しようとしました。

私もあまり詳しくありませんが、
本展覧会でも紹介されているように、新印象派の理論は、
当時の最新の色彩理論や物理学に基づいたものでした。

それを知っている人は、新印象派の絵画を見たときに、
「理論倒れなのではないか?」と疑ったことはないでしょうか。
私はそうでした。


でも、今回つくづく見ていて気づいたのです。
彼らの絵画は、(いわゆる)「印象派」の絵画、
あるいは17世紀オランダ絵画を見るように見ていても
その美しさはわからないのだと・・・。


そう、
新印象派とは
「適切な距離をとって」おつきあいする必要があるのです。



***


展覧会場に足を踏み入れ、順番に回っていきましょう。

モネやモリゾ(Berthe Morisot)らの作品、
スーラ①や新印象主義に傾倒する以前のシニャックの作品などを経て、
スーラの理論に基づいて製作された作品が並んだ空間に
足を踏み入れます。

みな「分割主義」的に描かれた作品のはずです。
でも、
「これはものの固有色を点点で描いているというだけではないの?」
という疑問がまだ拭えません。

「理論」の「効果」が感じられない。
分割主義は技術的問題にすぎないのか…と。

さらに進むと、
シニャックの
《サン=ブリアックの海、ラ・ガルド・ゲラン岬、作品211》(③)と
スーラの《ポール=アン=ベッサンの外港、満潮》(②)の
二つの海景が並び合った箇所に至ります。

スーラ②


シニャック


構図的にも似通ったところのある二作品。

同じ点描でも
より色鮮やかなコバルトブルーで目を引くのがシニャック。

一方で非常に細かい筆致を重ねて
ごく明るい浅葱色の海面を表現するスーラの作品。
手前に浮かんだヨットの帆は、
赤と青の細かい点描で三角形を形作っています。



ふと遠ざかってみます。


ずっと下がって。
部屋の真ん中におかれたベンチを挟んだこちら側まで下がって。


5mから7m位でしょうか?


スーラ作品の穏やかな陽光の中に浮かぶヨットの帆は、
今や赤と青の斑点ではなく紫がかった帆影となりました。
光を透過するような陰。

でもなにより目を奪われるのは、
鏡のように静かで、でもさざ波だったようでもある
透明感を失わない水面の色の美しさ。



決して大きい絵ではありません。
50㎝×70㎝とか、それくらいの。


でも、
このサイズの絵画で、
こんなに淡い色彩で、
こんなに遠くから見て、
こんな風に鮮明な印象を残せる絵画というのはあまりありません。


新印象派との「適切な距離」、
それは「もっと近くでみつめる」ことではありません。

かなり離れて見る必要があるのです。



目がパレットになるためには、
つぶつぶが見えている状態では不十分です。

離れましょう。もっと、ずっと。


すると新印象派の画家の思い描くものがわかります。
いえ、「新印象派の画家」ではなく、スーラの思い描く理想が・・・。


***


美術作品を表現する言葉として
「モニュメンタル」という言葉があります。
「記念碑のような」という言葉で、
もともとは、ある歴史的人物や出来事を記念するために建てられた
大きな碑などの様子をさすものです。
絵画作品を形容して使われる際は、
「堂々とした」とか「壮大」な感じを表す言葉として
使われていますが、
比較的小さい絵画に使われる場合は、
「古典的」「どっしりとした安定感」というニュアンスも
あるように思います。


私は、以前、プッサン(Nicolas Poussin)の
タブロー(=壁画でない絵画)を見た際、
非常に小さいのに、
ものすごく大きく堂々と感じられて驚いたことがあります。

それに似たものを私は今回、スーラに感じるのです。

一般には似つかわしくない言葉と思われるかもしれませんが、
スーラの作品には一種モニュメンタルなところがあります。

遠くから臨むべき絵画。
プロジェクションのように、
離れるほど受け取る側の印象が広がる絵画。
しかも静謐な安定を保ったまま…。


こういう印象を受け取るのは、
スーラの目指した理念が、「科学的合理性」であると同時に
「古典主義」であったからなのかもしれません
(モネら前世代の「印象派」と対比される部分です)。


また、モニュメンタルということでいえば、
新印象派の手法は、絵具による一種の「モザイク画」でした。
それぞれ固有の色のついた
テッセラ(モザイクを構成するガラスや陶器などの小さな切片)を
一つ一つ埋め込んで画像を描くモザイクのように、
点描という色の断片で画面に埋めていく新印象派の手法。

その真価が、スーラのこの一枚を見ていると感じられてくるのです。


一方に目を転じると、
隣のシニャック作品は、
色の彩度は高く、その点では目を引くけれど、
遠ざかったときの混色の効果は
スーラ作品ほどは感じられないように思います
(もちろんこちらはこちらで美しいですが)。
画面左下に飛び出したごつごつした岩の色合いが、
全体の調子からはずれているような感じもします。


***


秘密主義者であったというスーラは、
仲間であるシニャックにもその手法を明かさなかったといいます。

展覧会全体をみていると、スーラ以外のだれも、
本当には彼の理論を理解し実践できなかったのではないかと
おもわされます。

スーラの生前から、彼に追随する新印象主義者たちは、
完全な「法則化」には服従しきれていません。
それぞれの画家が
自分のタッチ、色の指向性、手技の自由さから逃れられなかった。

とどのつまり、
光と色と画面の調和についての秘技は、
スーラの死とともに失われました。
新印象派の心臓は、スーラとともに永遠に止まったのです。


もちろん、スーラの理念と他の画家とのブレを感じるのも
また一興ではあります。

スーラ死後の新印象主義の画家達の作品には、
心象風景を映したようなものがあり、
別の趣が感じられるように思います。


***


美術館の広さということもあるので、
あまり後ろまで下がれない作品もたくさんあります。

そういう意味では、今回、
スーラの①の絵はあまり後ろから見ることができず、
①と②の比較、という点からは少し残念でした。

その他の作品も、設営の関係上、
タブローの大きさに比して
「適切な距離」がとれないものもありますが、
全体としては
「新印象派」が充分堪能できる展覧会となっていると思います。


***


最後に、この展覧会を楽しむ際の注意がふたつ。

新印象派の絵は、目がパレット。
つまり「見る」行為をする私たちの感覚器を(意識化こみで)
めいっぱい使わなくてはいけません。

十分に時間をとって、ゆっくりご覧になるのがおススメです!

そして後ろに下がる際は、
周りの方にぶつからないように十分注意して下さいね。


新印象派に対する当初の印象が大きく変わるものではないけれど、
その美しさの心髄をみたような展覧会。


 
〈新印象派展 光と色のドラマ〉
会期:2014年10月10日ー2015年1月12日
会場:あべのハルカス美術館

http://neo.exhn.jp/index.html


【巡回】
東京都美術館
2015年 1月24日(土)~2015年3月29日(日)

お近くの方はぜひ足をお運びください。

今日はこれぐらいで。
それではまた。





 
Prologue: 絵をみる喜び

絵を見るのはお好きですか?

絵を見ることの楽しみを知っていますか?


* * * * *

絵の「楽しみ方」(「たしなみ方」?)には一般的に、
大きく二つぐらいの方法があります。

ひとつは
「どんな見方もあなたの自由」「自分の感性を解き放って!」
というものです。

見た人の感性に任せる方法。


もうひとつは、
「描かれたモティーフには一つ一つ隠された意味があるんです」
「これを描いた画家はこういう人でした」
と言う風に、その絵についての背景知識得ることで理解を深める方法。


この二つの「絵の見方」は、どちらも大事なアプローチです。


でも、絵を見る本当の楽しみは
「そこから先」にあるのではないでしょうか。


絵をみる楽しみ、それは、
自分のあらゆる知識と感性と経験とを総動員して
ひとつの作品を読み解く喜び。

あるひとつの作品は、
今とは違う時代・違う地域に生きた画家が、
その思い描いた「イメージ」を
訓練された腕をもって絵画画面に定着させ、
(多くの人の手を経て)今ここに現存する「モノ」それ自体。

物質であり、コンセプトであり、
視覚に作用する色彩や形そのものでもあるもの。

貴重な歴史的資料である一方で、
目の前に立つ者の感覚器に否応なく作用してしまうもの。


ひとつの作品はたくさんのものを負っています。
様々なアスペクトを持っている。


絵の前に立ち、自分自身の感じることを聞き取る。

画家の考えたことを想像する。

そして自分のあらゆる知識と経験を呼び出して、画家の時代を想起する。


すると、(毎回とはいいませんが、)
自分の感じたことと
歴史の事実と
イメージそのものの発するメッセージが
みごとに交差する地点に立つことができる(できた気がする)
ときがあるのです。


そのとき私は絵を見る本当の楽しみを感じます。


これは、それぞれの人がそれぞれの仕方でしかできない
作品との出会いかた。

感性は入り口、背景知識は準備にすぎません。


ひとつの作品とあなたが向き合ったとき、
あなたの身体の中でしか生まれ得ない新しい作品の見方があります。

そんな美術作品との出会いの準備のために、
今日も絵や美術作品について考察を巡らすそんなブログです。



 
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