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プロフィール

如月東子

Author:如月東子
C’est l’enfance de l’art.へようこそ。
(セ・ランファンス・ドゥ・ラール)

昔から絵を見るのが好きで、美術系の大学に行き「美術史」などを少し勉強しました。

その後、美術とは関係ないお仕事についたけど、美術について、普通の人よりはちょっぴりだけ多く考えてきました(多分)。

そんな私が、これまで美術鑑賞をするなかで気づいたこと・感じたこと・考えてきたことの中には、美術をもっと楽しみたいと思ってる人に、なにかヒントになることがあるかもしれません。

美術鑑賞の記録を中心に、美術館などの紹介や鑑賞の役に立つ情報などを載せていければ、と思います。

皆さんのお役に立てれば幸いです☆

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美術館に行こう!(展覧会編④)〜もったいないですから〜

こんにちは如月東子です。

秋は大きな展覧会がたくさん開催されていて
目移りしてしまいます。
面白い展覧会に出会えましたか?


今日は、展覧会に行ったときに、
なぜ「文字資料も読んだほうがいいのか」ということについて
考えてみます。


***


「文字資料を読む」というのは
わざわざ関連の本を買って読もう、
と言っているわけではありません。

展覧会に行くと、入口には「ご挨拶」、
そして、章ごと、作品ごとに
「キャプション」とよばれる説明文・解説があります。

展覧会に行ったら、最低限それぐらいは読もう、
というだけです。


…というと、
「当然読んでるよ!」というお声が聞こえてきそうです。

皆さんが説明書きを読んでおられるのは、
説明書きがある場所では
鑑賞者の流れが溜まってしまうことからもわかります。

説明書きを5分かけて読んで、
作品は10秒ぐらいしか見ていない、
なんて揶揄されることすらあります。


それでもやっぱり、
展覧会場の説明書はできるだけ全部読んだほうがよい
と私は思っています。


***


なぜ、読むことにこだわるのでしょうか?
それは、鑑賞の「客観性」に関係してきます。


私たちは、なにかを見たとき、一見しただけで
なんらかの印象を受けてしまいます。

視覚的なセンセーション(感覚)が伝える情報は様々にあり、
理性的に理解できるレベルから、
感情をかき立て、
無意識の記憶を喚起するレベルに達する情報もあるでしょう。

そんななかでも芸術作品は、
私たちの感覚に訴える力が特に強いのです。
芸術の持つ強い魔力です。


芸術作品は一瞬で、あるインパクトを人に与える。


そしてそのとき私たちは、
自分が得た印象を作品が発しているメッセージと
同一のものと考えてしまいがちです。


でも、視覚情報は、その力が強い一方で、非常に曖昧です。


インフォグラフのように、
一種の世界共通言語として
情報を伝達するのに特化して開発されている図像もありますが、
芸術作品の多くはそもそも複雑な何かを伝えようとしており、
受け取り手の状態によって、
受け取られる内容に非常な幅が生じます。


様々なレベルで様々なことを伝えているにもかかわらず
説明が少なすぎるのです。


そこで、
学者が、研究者が、作家が、批評家が、科学者が、
その他さまざまな人たちが、
さまざまなアプローチで
それぞれに作品からのメッセージを追いかけ続けています。

描かれた図像から、
作品を作った人・作らせた人の意図から、
置かれた場所から、流通の仕方から、
作られた時代の人が得た感覚から、
時代によって、地域によって違う受け取られ方から、
あるいはまた、
その作品の物性から、
その作品のもつ固有のメッセージを読み取ろうと
努めてきました。


その努力の現時点の結晶とも言えるのが、
展覧会におけるキャプションなのです。


様々な歴史資料から、
年代や作者、制作状況を割り出す…、
古い史料をあさるのは骨の折れる作業です。

科学的調査は多くの場合、修復作業と並行して行われますが、
時間とお金と根気のいる仕事です。

数多くの文献から、当時の言説・批評を集める。
同時代の他の膨大な作品と見比べる。
そしてもっと大きな歴史的枠組みの中に作品を投じてみる。


様々な人が、その作品について調べ、考えてきたことが、
一つのキャプションには詰まっているのです。



だからそれにアクセスしないのはまずもってもったいないことです。


もちろん、そのキャプションに書かれている説明が
「正しい答え」だと言うのではありません。

年代や制作地などのいわゆる「客観的な」データは
かなり正しいといえるかもしれませんが、
作品解釈には仮説しかありません。

ある時代に決定的と思われた作品解釈すら、
資料の発見や修復によって、
評論家のロマンティックな思い込みだったと
発覚することがあります。

あなたも全く違う文脈を読み込んで、
自分に都合の良いなにかをそこに見ているかもしれない。
ひどく思い違いをしているかもしれない。


逆に、解説とは違っても、
あるいはたとえ作者の意図とは違ったとしても、
あなたの得た答えが「正しい」のかもしれません。
それが今ある「客観的」情報に耐えうるものであれば。

…いえ、「客観的」情報に耐えられないとしても、
作品が自分に与える感覚からなにを受け取り、
どんなメッセージを読むのかは見る人の自由です。


でも、あなたの得たものだけが答えではない、
ということは了解しておくべきです。


あなたがなにを感じようと、
作品が固有にもつメッセージは
永遠にあなたの外に存在し続けるのです。

誰かの作品解釈の外側に存在し続けるのです。


だからこそ、誰かが書いた作品の解説や説明書を読んだら、
そのまま通り過ぎてはいけないのです。

もう一度作品を見返して、
その解釈に、自分の感覚でチャレンジしなければ。


解説を一生懸命読むのが悪いのでは決してありません。

気をつけるべきは、
あくまで「他者」である作品を理解するために読んでいるのだ、
ということを忘れないことだけです。


解説が苦手、という方でも、
ちょっと面倒で、
ちょっと自分を混乱させるとしても、
解説を読んで、
少しだけ自分の世界を広げてみたらいかがでしょうか。


今日はこれぐらいで。
それではまた。


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